諦めること

諦められることは、諦められないことより数倍幸せな結論だなと思う。チャンスがあるということは必ずしも幸せなことではなく、そこにたどり着ける可能性をいつまでも燻らせる。

 

この一ヶ月以内に、二つ終わらせたことがある。自らきちんと終わらせたこと、多少未練のある可能性を自らの手で絞めることは、今までにあるようでない経験だった。とうとう出来なかったね、残念だったねという気持ちが半分、それらを持ち続けることにもう疲れなくても良いんだ、と安心している気持ちが半分。

 

少し空いたこの隙間に、もう新しい可能性が入り込もうとしている。自分の持てる量には限りがあったのかと、減らした分だけ新しいものを持てるようになるのかと気付く。少し荷物を減らしたまま歩き続けるのか、新しい荷物を受け取るのか。

 

諦めるという観点からしてみれば、昔の人は今より少し楽だったかもしれないと思う。階級制度があった頃、必ずしも諦めないといけない身分差があった。平民は貴族になれなかった。生まれ持ったもの、生まれ育った土地、そういったことで諦めないといけないことがたくさんあったはずだ。

 

今は世界が繋がり、身分差が縮まり、平等を望む時代だ。チャンスは誰しもに与えられていると思われている時代。諦められないのだ、努力でなんとかなるように見えるから。もちろんそれは事実であるが、絶対ではない。環境の違いから起きる差はいくらでも存在している。

 

この新しい可能性を、諦めた方が幸せか、諦めない方が幸せか。なんてこと、今は考えずに少し休みたい。どうせ結論はわかっているのだから。