パグのタロット

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去年の今頃、コロナの影響で学校が閉まった時に、暇を持て余していたためパグのタロットをネットで買った。先行き不透明な世の中で、少しでも何か希望めいたものが欲しいなと思ったからだ。なぜパグの柄のを買ったかというと、単純に可愛かったのと、多少良くない結果が出ても「まあパグの言うことだから…」と思える気がしたから。

 

出たカードの意味を正確に読むには、きちんと学ぶ必要があるらしい。難しい占いをやるほど結果の解釈も難しくなる。そこまでのやる気はなかったため、一番簡単な2枚選ぶタイプの占いばかりやって、出た結果を検索している。結果と対策の2つのカードを読み解くのだ。

 

このパグは本当にめちゃくちゃ厳しかった。思えば一番最初に「これからよろしくお願いします」って気持ちで引いたカードですら「行動をするのはあなたです」みたいな一線引かれた結果が出たのだった。カードをちゃんと混ぜて切ってるのにも関わらず逆位置ばかり出るし、厳しめの結果が多かったので私の方もちょっとうんざりしてパグに何かを聞くことをしなくなっていたのだけど、今日久しぶりに質問をしてみた。

 

最近忙しい。朝起きたらすぐ事務作業、昼前に学校へ向かう。今月末まで15曲も録音しなきゃならない上、不安を感じるくらい間に合うのかわからない曲もあるので、それらを片っ端からさらっている。気付いたら23時、そこから家に帰って寝て起きて同じ生活。論文の口頭試問と、音楽についての幅広い知識を問われる口頭試験も目前。追々試まで受けれるとはいえ、可能な限り落としたくない。けど何を対策すれば良いのか、それすらも広すぎて見失っているレベル。英語の試験も受けなきゃいけない。簡易テスト受けたら、A1かA2かなって結果が出る日もあればB1かB2かなって結果の日もあって、振れ幅が大きすぎて対策しきれていない。

 

ただ、やっていることは全部かなり楽しい。これらの結果がどうなろうと、自分の力になっていると実感している。ただやっぱり疲れてくると、今やっているこれは本当に報われるのか、って考えがグルグルする。間に合わなくて今やってることが全部無駄にならないか、本当にやり切れるのか。周りが結果を出して報われていたりチャンスを得ている中で、その運の良さを羨ましく思ったりして、自分も何か将来や安定に繋がる結果を出せるのかと。そこんところどうなのでしょうか。ってパグに聞いてみたところ、かなり核心を突かれた結果が出た。

 

「自分の立場や心境ばかりが不安定と感じてしまい、運命の不公平さを痛感することになる。バランスを取り戻すこと。目指す目的地を見直すこと。自分を省みること。努力の方向性を見直すこと。辛抱強く努力や忍耐を続けて行くことで行動が報われ、良い結果につながることや、献身的な姿勢が周囲の人達に歓迎されて自分への好意的な評価に変わる。」

 

これは出たカードを検索して、書いてあった文章を繋げただけだけど、今の自分にぴったりの忠告だと思う。かなり的を得ている…というか本当にその通りとしか言いようがない。目的に向かって頑張っているはずなのに、手段に固執して先に進めなかったり、手段が目的化してしまって本当の目的を見失うこととか、多分私に限らずよくあることだと思うけど。自分が報われてないように感じる時って、自分の目的が曖昧になっていることが多い。

 

今回もパグに気付かされた。毎度毎度痛いところを突かれてウッと思わされているけれど、核心を突いてきてるなとは思う。占い全般に言えることだと思うけど、出た結果をそのまま信じると言うよりは、自分の悩んでいることに対して一つの答えを突きつけてもらうことによって、そのせいで発生した考えや感情を消化させて答えをクリアにしていくのが、占いとの良い付き合い方なんじゃないかなと思っている。そういう意味でパグとは適切な距離を取れており、相性がいい気がする。

 

ちなみに、随分前に「私はあと一年ヨーロッパにいるのか」と質問したところ「全て望むようになる」という最強のカードが初めて出た。そして今日、前はパグああ言ってくれたけど、その場合来年一年間の金銭面どうにかなりますかね…と具体的な質問をしてみたところ、同じカードが出た。パグ的には「安心しろ、お金はないけど奨学金借りれるよ、借金だ借金」くらいのノリかもしれないけど。「全て望むようになる」ってのもかなり頼もしいカードだけど、これに関してはどの進路に決まっても自分の望むことをやってるだろうなと思えているので、「全て望むようになる」のだろうな。明日からも頑張れる。

クレモンティーヌを味わう

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コロナで大学の活動もあまり活発じゃない中、この1月は珍しく落ち着かない月だった。オンラインでの小さな演奏会、友人の試験の手伝い、副科の修了試験、修士論文提出、コンペの録音など。今からちょうど1年ほど前に、楽器もプログラムも編成も全然違う演奏会を2週間に5つほど入れたら見事に燃え尽きてしまって、自分を取り戻すのにほとんど1年かかってしまった。この経験は数ある燃え尽きの原因の1つでしかないけど、私にとってとどめの一撃になったことは間違いない。同じことを繰り返したくなくて、適度にセーブしながら過ごしていた。

 

セーブしていたからなのか、演奏の感覚が全然戻ってこない。技術的には前より確実に良くなっていると感じている。ただ1年前と同じような感覚が戻って来ていない。「ここでこうする、ああする」などと考えないと弾ききることが出来ない。演奏するときの姿勢すら文字にしないと不安になる。大事な演奏前に全然緊張しない。かといって弾き始めたらものすごく緊張するし、録音では演奏が止まる。

 

考えることがたくさん、こんなに考えることがあるのに感覚ってどう使ってたっけ。今より調子が良かったときに、こんなに色々考えて弾いてた記憶がない。前はもっと感覚で弾けてたけど、それって私が何も知らなかったからうまくいってたと思い込んでただけだったのかな。練習不足ではないと思うけれど、昔弾けていた曲の感覚がここまで戻ってこないものなのか。それならなおさらちゃんと考えて、決め切って弾かなきゃ最悪の事態になる。ただ、歩行や呼吸に自分の考えが必要ないのと同じで、演奏中にあまり考えて弾いてたことはなかった気がする。ここまで脳も耳も身体もバラバラになってる自覚があるのは、初めてのことかもしれない。

 

これは沼に足を沈め切る前に抜け出す必要がある。そういえば最近は時間の余裕も食欲もなくって、スーパーで買った2㎏のクレモンティーヌばかりを買い足して食べていた。同じネットに入っているのに、形や硬さによって味がちょっと違うなあと思ってはいた。日本で買うミカンはこんなに味が変わることはなかったから、初めのうちはコロナに感染したときの味覚障害かと思っていたんだけど、味覚は正常だった。

 

というわけで、これを使って感覚のリハビリをしてみようと思った。ネットから取り出す。皮は押しても握っても全然へこまなくて、野球の硬球を小さくしたものを触っているような重みがある。皮にぽつぽつがあることは知っていたけど、このぽつぽつは凹ではなく凸だった。どこかで見たことがあるなと思ったけど、自分の目の下の肌に似ていた…。剥こうと思って剥きやすい方に指を刺したつもりだったけど、ヘタが取れていたことに気づかずヘタ側から剥いてしまった。オレンジを素手で剝いているような剥き辛さ。皮は20ピースくらいのパズルみたいになった。実にはスジどころか白い皮がびっしり付いていたのだけど、白いところに栄養があると聞いたことがあったのでとりあえずそのままにした。

 

実を割って房を1つ取り出す。薄皮ですら結構硬そうな触感だった。房を嗅いでみたら爽やかで強烈な香りがしたけれど、まとまってる実の方はそんなに香らなかった。なんでだろうと思ったけど、表皮を向いた時の香りが指についていただけだった。そのまま房を口に放り込んで噛んだら種が入っていた、見ただけで種に気付くことが出来ないくらい、白く濁った不透明な薄皮だった。果汁のじゅわっとした食感は少なく、薄皮の存在感が気になる。よくよく味わうとちょっと苦みを感じた。今までクレモンティーヌを食べてきて苦いと感じたことはなかったので新鮮な驚きだった。新しい房を取り出して半分に割ってみた。果肉というのか、つぶつぶがとてもしっかりしていた。上手に炊けた白米くらいしっかりしている。意外とおもしろい体験だったので、そのままセロリやフムスを味わってみたら、いつも以上に味の存在感があった。良くも悪くも濃い。今まで刺激のある食べ物じゃないと満足感を得られにくかったけど、しっかり満足した感覚がある。

 

しばらくこんな感じで、生活の中で丁寧に感覚を使う時間を取ってみようかな。練習もそう、手を動かす時間を削って、その分楽譜を読んで味わう時間を増やしたり、自分や人の演奏に耳を傾ける機会を増やした方がいいのだろう。自分は内側に籠りやすい性格だし、そしてなおさらこの時期だから。

狂気と共存

狂気を狂気たらしめるのが、狂気の外側にいる人間と社会ならば、狂気の目から外側の世界はどう見えているんだろう。

 

差別、誹謗中傷、辛いニュースが多い昨今、これらの善き登場人物たちと悪者を共存させるには、どうすればいいんだろうと俯瞰してみる。この悪者の定義は、昨日と今日では全く違ってしまうことがある。悪者として扱われていた人が、亡くなってしまってからは可哀そうな人として扱われて、その人を誹謗中傷した人たちが悪者になった。

 

悪者は本当は何を考えていたのだろう。悪者からも狂気は見える。悪者にとって狂気に思える意見や行動がある。

 

よく悪者は、善き登場人物たちを恨んだり攻撃する。でも本当に悪者にとって辛いことは善き登場人物の存在ではなく、自分が人々から受ける不当な扱いが大半だと思う。埋めなきゃいけない溝は「不当な扱い」の部分であり、それは登場人物の大半が協力する必要がある。なぜ大半かというと、多分全員は無理だからだ。大半の作り出す社会が、溝を認識して、そこを埋める必要がある。この溝が埋まらなければ、お互いを一生攻撃し続けるので、誰にもメリットがない。いや、一部の人間はそれを望むかもしれない。

 

その一部の人間は、自分の生活を有利なままにするために、現状を変えようとしなかったり、より自分たちに有利なほうに物事を進めようとする。自分たちの周りの差別や不当に気付くということは、こういう人たちの怪しい動きを阻止したり、世の中の「辛さ」を減らしていく力になる。

 

私たちは共存しなければならない、同じ星に存在している以上、それは避けられることじゃない。だから、起こっている出来事を知ること、間違ってもいいから自分の意見を持ち他人と穏やかに話してみること、自分の範囲の外側にいる人間か何を考えるのか想像することが、今世の中に必要なことだなと感じている。

本を買ってるはなし

実家に自分の部屋を設えて一ヶ月が過ぎた。二階の日当たりが良過ぎる部屋で、これからの季節に一番向いてない部屋だ。高校を卒業した後、10年近く実家に住んでいなかったので、自分の部屋が無かった。部屋の準備は、4年前に東京から引き上げた際の荷解きをするところから始まった。

 

今は静かに暮らしたい。部屋に引きこもって、お茶を飲み、本ばかり読んでいる。ネットで古本を一気に20冊くらい購入し、漫画も含め、手を付けては別の本に手を出したりもして、ネットになければ本屋に行って、考えのヒントになりそうな本や、毒にも薬にもならなさそうな文庫本や、猫の小説を買っている。

 

余談だけど、今本屋に行くと信じられないくらい人がいる。こんな芋洗い状態の本屋に入ったことはなかった、開店時間に行ったのに既に駐車場いっぱい、立ち読みやら子供と親やら、それに対応する大量の店員さんまで、人づくしだった。

 

ぽつぽつと自分の言いたいことに相応しい言葉が出てくるのだけど、それを書ける時と書けない時がある。こういう場、ただの個人的なブログに、あまり示唆めいたものを書きたくない。同じく今、外から摂取する文章に、正解や思想を望んでない。しかし誰かしら、私も含めて、いつも何かしらの答えを探しているので、現代の大概の文章がそっちに寄る。たくさんのSNSの投稿とかね。それが正しいとか間違ってるとかではなく、今それを読みたくない。最近ようやくその毒が抜けてきた。

 

私が人に相談すると、損得で選んでみたらってよく言われるけれど、損得じゃ無いんだよな、損得で言ってしまったら、自ら進んで損取ってることも多い気がするし。吉凶の方がしっくりくる。これやると自分にとっては吉、これに関わると凶、みたいな。

 

今、自分の手元には、自分にとって吉の本ばかりが集まっている。もう読まなさそうな本はみんな売りに出した、多分30冊以上出したんだけど、901円になった。

帰国談

3/27

 

大学が今期全てを閉めることを正式に決定する。来期は9月始まりのため、帰国を決断する。

 

3/28

 

同じく帰国を決めた友人たちと、フランクフルト発羽田着の便に乗る。航空会社が飛行機の数を制限している都合で、日本人が意外とたくさんいる。留学先から引き上げる高校生の軍団、小さい子供たちとその家族(4/1の異動なのだろう)、そして楽器を持っている恐らく音大生らしい人たちがそこそこいた。外国から日本行きの便だとしても、日本人乗客率がほぼ100%というのは見たことないので新鮮。機内食は1種類、ドリンクはペットボトルの水を2本支給された。わかる範囲で誰も咳をしていなくて、ひとまずは安心した。

 

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3/29

 

羽田に着いた。職員さんたちの対応を見ていて、現場が混乱しているんだろうなと少し不安になった。狭めのスペースと大量の乗客を前に、マスクをせずに対応している事務職員さんもいる。

 

PCR検査を乗客全員が受けた。現在外国から日本に入る人たちは、公共交通機関を使わずに帰ること、14日間の自主隔離を行うことが要請されている。しかし現場では「PCR検査の結果判定には時間がかかるため、公共交通機関を使わずに帰る方は判定が出る前に帰ることができます」とのアナウンスが流れる。つまり、ここにいる全員が判定前に帰れると言いたいのか、それとも公共交通機関とわざわざ言うあたり、判定が陰性だとわかったら公共交通機関を使って帰っても良いのか、その真意がよくわからなかった。

 

また、地方の人たちが自家用車で帰る場合は高速のサービスエリアなどでお手洗いを利用することがある。言われた言葉を書くが「もしサービスエリアやレストランに行く場合、どこに何時から何時まで立ち寄ったかを記録しておいてください」とのことだった。この時点で、症状なしの陽性の疑いがある人間たちが、空港から自宅間の何かしらの施設を使うことは致し方ないとされているのは間違いない。実際私もサービスエリアのトイレに行った。

 

一連の空港の動きで、少し曖昧な物言いや、真意の汲み取りにくい発言、どこまでが許されるのかを個人の判断に委ねるような発言があると感じた。これは日本人の話し方の特徴の一つだと思うけれど、感染病の予防に対して非常に相性が悪いだろう。

 

3/30

 

自主隔離1日目。帰国の翌日から数えて14日間の隔離なので、4/13から自由に行動出来るようになる。しかし、正直日本の状況がさらに悪化しているのは避けられないだろうと思っているので、隔離明けも生活は大して変わらないだろう。予約時に隔離目的の宿泊と伝えてあるため、連泊期間中の掃除を断ったところ、驚かれて聞き直されたことに驚いた。一応隔離なので…汚くしないので…そういう生活外国で慣れてるので…のどれも思ったが言えず、ただの不精不潔な人と思われていそうで泣ける。その後ニュースを見ていて、志村けんさんが亡くなったと知った。PCR検査結果はまだ来ない。

 

3/31

 

18時くらいに検査の結果の連絡が来た。陰性だった。週明けから実家に移動して良いと、親からお許しが出る。

 

 

 

これは私の体験だし、万人にこれが当てはまるとも思えないが、個人的な感覚について記録しておく。

 

今スイスは人口100万人に対しての感染者数がイタリアと並んでいる状態だ。さらに住んでいるチューリッヒは、国内4番目に感染者数の多い州。私の住んでいる学生寮にも、感染者、濃厚接触者(全員寮で自己隔離中)がいた。そんな中で単位取得のためにトラムに片道45分乗り、毎日移動をする必要があったため、なかなか身の危険は感じていた。スイスは外出禁止令が出ておらず、正直街中にアホな若者はいたし見た。

 

こういう環境の中だったが、かからない・うつさないよう人に出来るだけ近づかないために、キッチンは可能な限り彼らと時間をずらして使用し、とにかく部屋を換気し、手洗いうがいをし、手で顔に触れず、トラムやバスに乗る際は人と距離をとり、咳をした人からは離れ、人とシェアするスペースに行く際は自身と他人の体調を確認し、部屋に入る前にアルコール消毒をして手のウイルスを部屋に持ち込まない、とかを徹底してやっていた。当然自分は比較的健康なおかげで防げていたのだと思うが、世の中で言われている対策法はちゃんと効果的だと感じた。

 

もし自分の生活や環境が万全じゃないと分かっている場合でも「可能な限り」で良いので対策をすると、感染を防げる可能性が高められるかもしれない。

 

実際今の行政を見ていると、今より強く指示を出すことも、補償に対しても柔軟に動くことができず、すぐに対策が打てないんだと感じる。それにしてもお肉券などの頓珍漢なことをやっているので当然愚策だし叩かれるのもわかるが、市民が望む「補償があれば休業に踏み切れる」というのはいつになるかわからない。

 

自身が防げることをやって、ガンガン意見も出して、今はやれることやっていくしかないなと感じる。とりあえず私は日本でフリーランスで音楽家やっていくのは無理だと今回強く感じました。

Everything we hear is an opinion, not a fact. Everything we see is a perspective, not the truth.

今自分が物事を知っているつもりになっていることが増えているように感じる。それは塵のように蓄積され、ゆっくりと事実から遠ざかる。事実を知らないのは怖いなと思うけど、事実など知りようがない。大体の話はその人の視点であり意見だ。自身の経験した"事実"ですら、言語化し人に伝える際に"意見"になる。

 

SNSで拡散される、刺激的で分かりやすい情報の数々。それがどこまで専門性があるのか、どの立場の人間が書いているのか、一目しただけでは正直なところわからないことが多い。さらには自分にそれらの専門的な知識がないので、信用性についての判断は他の専門家の集合知に頼ることになる。

 

簡単に入ってくる情報が多い。そしてそれらのノイズが多い。これだけで自分はかなり消耗している。最低限得られる情報の選別をしたい。受動的になるのではなく、自発的に。

 

正直、人についても少し消耗している。SNSではあまり好きじゃないけど、会うと信頼できるし好きだなと思える人はたくさんいる。内部、外部、より多数の人に向けた外部(SNS)の3つの層があって、内部とSNSの乖離の差が見えるとストレスを感じる。それは自分のSNSの使い方に対しても感じていた。他人よりなにより、自分を一番消耗させているのが自分だとわかって、前のツイッターアカウントを使うのを辞めた。

 

自分のことだが、SNSがどうなろうと、依然として自分の内部と外部はかなり距離があり、関係はあまり良くない。この距離をゆっくり縮めていくのが当面の目標。自分のこともそうだし、音楽に対しても。

諦めること

諦められることは、諦められないことより数倍幸せな結論だなと思う。チャンスがあるということは必ずしも幸せなことではなく、そこにたどり着ける可能性をいつまでも燻らせる。

 

この一ヶ月以内に、二つ終わらせたことがある。自らきちんと終わらせたこと、多少未練のある可能性を自らの手で絞めることは、今までにあるようでない経験だった。とうとう出来なかったね、残念だったねという気持ちが半分、それらを持ち続けることにもう疲れなくても良いんだ、と安心している気持ちが半分。

 

少し空いたこの隙間に、もう新しい可能性が入り込もうとしている。自分の持てる量には限りがあったのかと、減らした分だけ新しいものを持てるようになるのかと気付く。少し荷物を減らしたまま歩き続けるのか、新しい荷物を受け取るのか。

 

諦めるという観点からしてみれば、昔の人は今より少し楽だったかもしれないと思う。階級制度があった頃、必ずしも諦めないといけない身分差があった。平民は貴族になれなかった。生まれ持ったもの、生まれ育った土地、そういったことで諦めないといけないことがたくさんあったはずだ。

 

今は世界が繋がり、身分差が縮まり、平等を望む時代だ。チャンスは誰しもに与えられていると思われている時代。諦められないのだ、努力でなんとかなるように見えるから。もちろんそれは事実であるが、絶対ではない。環境の違いから起きる差はいくらでも存在している。

 

この新しい可能性を、諦めた方が幸せか、諦めない方が幸せか。なんてこと、今は考えずに少し休みたい。どうせ結論はわかっているのだから。